女性の地位が今よりも低かった頃は女性から離縁をすることが難しくかったそうです。どうしても離縁をしたい女性が逃げ込める所として縁切寺というものが徳川幕府公認でこちらと群馬の満徳寺で2寺ありました。
とはいえ関東にしかありませんしそれで全国をカバーできる訳もなく、実際は近所の代官所に駆け込んだりすることの方が多かったようです。現実四国九州から江戸迄逃げて来られたなら縁切寺に行かなくてもほぼ目的は達成されたでしょうし。
群馬の満徳寺は行ったことがありました。でも寺は既に無く資料館と復元本堂はありますが寺としては機能していません。このブログではもう何度も出ている話で明治の廃仏毀釈の折り廃寺になっています。
なので旧の縁切寺として残っているのはこちらの東慶寺だけです。幕府直轄のお寺だったと思いますがかなり縮小されてしまったんだろうと想像しています。間口が狭く奥に敷地が延びている感じです。
このお寺の開基は覚山尼、北條時宗の奥様です。歩いて1、2分の所に鎌倉五山の円覚寺があります。そこに北條時宗夫妻のお墓がありますのでこの近さは何か関係があるのでしょう。調べられてはいませんが。
こちら土産物も売られてはいますがあまり観光対応していません。逆に拝観料もありませんが。でも色々有名人のお墓もあるのに札も何も立っていませんので、ガイドが無いと探すのは本当に大変です。墓地は寺の奥の坂になっている所なので。
用堂女王のお墓のみ場所を示す石塔があります。後醍醐天皇の娘で鎌倉で亡くなった護良親王の弔いでこのお寺で尼になったそうです。でも今の観光客には何のことやら。その近くに歴代住職さんのお墓があり、恐らくこのお寺で一番の有名人だと思われる天秀尼のお墓もその辺り。
豊臣秀頼の娘で母親は不明。大坂の陣で生き残り千姫の養女としてこちらの寺に送られたそうです。殺される一歩手前でした。尼にする事で子孫を残させないというのも徳川家の方針だったのでしょう。
本堂にはその天秀尼の木造があります。この像も関東大震災のおり頭部以外は壊れてしまった、というより鐘楼以外全て壊れてしまったそうです。なので諸々のものがそれ以降に復元、修復、建て直されています。
本堂は山門から入って参道の右側にあります。最初通り過ぎてしまいました。参道の奥にあるものと思いこんでいました。なので最後にお参りする形になってしまいました。あとこちらのお参りはずっと坂を登って行く感じです。脚が衰えて来たら大変だと思いました。鎌倉は坂が多いですけど。